飲み会で 課長さんといい雰囲気になった 何年後 だっただろうか、定かではないのだけど、いまのダンナさんと 東小金井で 同棲することになった。26歳のときだったか。
いつだかの 飲み会 で いい雰囲気になったことは どこか頭の隅にあったし、ああ 課長さんのこと なんか好きになってしまったかも と思いつつも、既婚者相手は無理だなあ と思い。わたしは平静を装って というか 気持ちを隠して 日々 生活をしていた。
東小金井は 課長さんと同じ沿線で数駅違い。
ある日 わたしは 近所になりますので と軽い気持ちで 同棲を伝えたところ、
ガキ作って さっさと会社辞めればいいじゃねーか!!
と 大声で怒鳴られたのである。
びっくりした。目上の立場から発せられた言葉。
パワハラ!!と思ったけど、
同時に、
なんかことひと わたしのこと めちゃくちゃ好きなんじゃないのかな?
と 急に相手の存在が大きくなり、心が強く呪縛にかかったようになったのである。いつだかの日記に、この人との関係が破綻するとわたし壊れるかもしれないという予感があり と書いたけど、今思えば、この強い言葉に心が強く縛り付けられたのかもしれないと思う。
強い言葉。男の言葉。
わたしがむかしから好きなある小説のあとがきに、高橋源一郎さんが言葉をよせていたのを 思い出した。
以下 引用。
100年前、日本近代文学の創始者たちは輝く未来の文学のため、と信じて、新しい散文を作りだした。しかし、よく知られているように、その言葉は、なにより「教育」のために用いられたのだ。それは教えられる言葉だった。もっと露骨に言葉の表現を使うなら、それは、人々を、生まれたばかりの若い近代国家の国民として飼いならすためにもっとも便利な言葉だった。それは、わかりやすく、教えやすく、反復に耐えることができた。言葉は、まず「外」からやってきた。そして、当然、その世界を支配する「男」たちの言葉であり、いうことを聞けと命令するものだった。
以上 引用終わり。
上の文は、この小説のあとがき。
じつはこの小説の主人公、とある言葉につまづき、なにかが壊れ、幻聴が聞こえる 病を患っているのです。
わたしは男の言葉に支配されてしまったのかもしれない。と思う。
そして小説の主人公と同じように壊れてしまったような気がする。
その10年後…
ガキができた。
おれは おおしまさんが幸せになってくれるなら なんでもいいんだけど。
と 都度 言っていた。
その言葉には縛りはなかったように感じる。
わたしはいま幸せなんだろうか
おわり